篩網の起源

篩網の起源

図はエジプト人が手臼に依って製粉している全工程を示したものです。aは篩の形を示し、bは篩を使用しているところを描いています。また、左右の象形文字は絵図の意を説明しています。

篩の起源と篩絹の出現
1. 粉とふすまの分離

私たち人間の先祖が最初に行なった加工は、殻物を粉砕し皮を分離することであったといわれています。エジプトや中央アジアでは、当時の食糧はトウモロコシや水分の少ない硬い小麦などであったため、煮るにも焼くにも、相当の手間を必要としたはずです。やがて、農業が盛んになり、文化の発展に呼応して、粉砕加工の要求は高まり、彼らはその道具として石臼を生み出し、発展させました。

「人その石臼を質に置くべからず。これその生命をつなぐものなればなり」
これは旧約聖書「モーセ五書 申命記」の一節です。このように、太古の時代から、石臼は人の生命の糧として神聖なものとされていました。
こうした食糧の加工が紀元前4,000年頃から行なわれていたことは、数多くの遺跡の発掘によって明らかにされています。食糧の加工は、最初の臼と杵による女性の単純労働の段階から、ローマ時代の集団的作業による畜力利用の段階へと推移し、次第に工業的な色彩を強めていきました。

そして、粉砕の次に考えられたことは、粉とふすまの分離です。そこでは当然、篩が必要となりますが、実際にこれが用いられたのは、石臼よりずっと後れて紀元前100年頃とされています。篩が出現するまでそれほど長い年月を必要としたのは、篩の材料として適当な糸を発見することができなかったからでしょう。殻物の調製が世帯単位の家内作業であった頃は、風の利用や、手先による作業で十分賄えました。

しかし、石臼の形態が整い、畜力を利用した集団作業の時代に入ると、仕事は男の手に引き渡されます。大量の殻物が粉砕され、ふすまと粉の分離は非常な労力を必要としたため、篩は不可欠なものとなりました。そして、人々は、長い間求めていた篩の糸を目の前に発見したのです。それは、石臼を引く馬の尾でした。
馬の尾の毛で織った篩ができあがると、石臼と篩の流れ作業が考案されました。馬力からさらに水車、風車を動力に利用することによって、次第に製粉工場の形態が築かれるようになったのです。このように、石臼と篩の結合は、人間が行なった最初の流れ作業であったといわれています。

2. 絹の目を通した白い粉

篩の糸は、細く丈夫で滑りがよくある必要があります。その性質を持つものとして、馬の尾、麻、針金などが用いられ、絹糸が使用されるようになるまでには、長い年月が流れました。絹が初めて東洋から欧州に紹介されたのは12世紀頃。中国からチベットを経て欧州を結ぶ、いわゆる「シルクロード」によってもたらせられました。

しかし、何故、このような貴重品が安易に篩の材料として使用されようになったのか? その後、16世紀になって海路が開け、東洋と欧州との貿易が盛んになった時代でも、絹が貴重品であったことを考えると、歴史上の謎とされています。

当時、欧州では水車、風車を利用した製粉工場がいたるところに出現していました。それらはいずれも回転石臼を用い、一度に小麦を粉砕し、大きなふすまのみを分離する即時法という方法を用い、目のあらい篩のみが使用されていました。目の細かい篩はまだ出現していなかったのです。元来、石臼による粉砕は、ふすまの微片をかなりたくさん生ずるものであったため、細かい篩を使っても処理しきれず、仕事にならなかったことも考えられます。そのような理由から、中世においては、たとえ王侯貴族といえども、今日のような白いパンはとうてい口にすることはできなかったはずです。

篩絹の製造が始まったのは、さらに時代を経て18世紀の産業革命の当初。蒸気機関の発明と鉄道の敷設により、製造工場が一大発展を遂げた時期以来です。石臼は1822年ロール機に代わり、篩機はたくさんの篩面積を持つようになりました。また、ふすまの微片を取り除く純化篩機も発明され、それまでにはなかった純白の粉が得られるようになりました。

このため、篩の需要は欧州一帯にわたって増加しはじめます。なかでもドイツ、オーストリア、ハンガリーなどの中部ヨーロッパでは、最も早くから製粉工場の機械化が進みました。 スイスが篩工業の中心となったのは、スイスの気象条件が適していたことと、スイス人・トブラー、フランス人・デュフォの2人の共同研究の成果といわれています。スイスの篩絹は欧州一円のほか、アメリカにも供給されました。その篩にかけられた粉が明治の初頭、アメリカからわが国へ輸入され、その色が純白であったために、当時の国民を驚かせました。以後、それは「メリケン粉」と称され、既存の「うどん粉」と区別されました。

わが国の篩絹の起源と変遷
1. 食事と神事に欠かせぬもの

わが国においても、篩の材料として最初に用いられたものは、諸外国と同様に馬の尾毛でした。絹の篩が使用されるようになったのは、織布技術が発達した後のことです。

中国では約2000年前の漢の時代、すでに羅(ら、うすぎぬ)や紗(しゃ、うすぎぬ)を衣服に用い、わが国でも飛鳥時代、奈良時代に、紗を冠および衣服などに用いたようで、絹篩の起源もその当時よりあまり遠くないと考えらます。

製粉用篩に関する古い文献によると、「延喜式四時祭」に、「絹二丈一尺、篩料、絲四両、篩等を縫う料を神に供す」、また「延喜式四十主水」の供御年料には、「絹太篩四口、絹小筋二十口、等々を供えた」と記されていることから、昔は神前に絹篩地を供え、御年料に絹篩を用いたものとみられます。このように、絹篩が当時の人々にとって、いかに食生活の上で欠くことのできない重要なものであるかが、十分うかがわれます。

江戸時代の百科辞典といわれる「和漢三才図会」には、篩の字のほかに簸、布流比の文字を見つけることができ、それは「毎家必要の重器也」といわれ、馬の尾毛で織った毛篩は目も細密であったと記されています。

また、中国明代の農書「農政全書」や産業技術書「天工開物」からも、中国で古くから製粉の篩分けに絹篩地が使用されていたことが明らかです。さらに「更雅」には「篩とは振也、其動きて用をなすという。竹材のもの、馬毛のもの、絹材のもの等あり」と記されています。

このように、わが国においては絹篩の起源はきわめて古く、生活に密着していたばかりでなく、神事にも欠くことのできない必需品であったとみられます。その製法も手機(てばた)による平織の形で伝承され、製品は水車製粉用として供給され、行商人の手で山間へき地の水車小屋へも行きわたっていきました。

しかし、家内工業であったため生産は零細なものであったことも事実です。
八王子に近い砂川の中野(絹屋)平蔵が、織物業として篩絹(平織)の製造を始めたのは天保元年(1830)。当時の八王子は、日本の主要な絹業地帯のひとつであり、紋織、帯地、八丈などが生産されていました。平蔵が創業した篩絹製造業は、その子孫によって受け継がれ、幕末を経て明治時代を迎えました。

2. 厚いスイス紗織の壁

小麦粉は、わが国でも古くから日常食品として定着し、その製造は農家の副業として、水車の力で石臼を回し、小麦をつぶす方法が普及していました。明治に入って、機械製粉を欧米から移入する試みがなされました。しかし、当時は水車製粉に対抗できるほど普及はしなかった模様です。小麦粉の消費が急増し、メリケン粉の輸入も増えたのは、明治28年の日清戦争後ですが、その時点でも、水車製粉が機械製粉を上回っていました。

両者の勢力が逆転するようになったのは日露戦争以後で、特に機械製粉の日清製粉株式会社は、明治末年にわが国の製粉業界をリードする勢力に急成長を遂げました。日清製粉の創立は明治40年。その前身の館林製粉株式会社は明治33年、群馬県下で創業しました。当時の大製粉会社では、篩絹はすべてスイス製のものを輸入していました。生糸を材料とする紗織であることから国産化の試みもありましたが、実現は困難であった模様です。

大正2年頃になると、わが国も水車製粉時代を脱け出し、機械製粉の時代を迎えました。当時の製粉機械にはスイスの紗織篩絹がセットされ、高島屋飯田株式会社はスイスから一手に、紗織篩絹を輸入し販売していました。高島屋飯田の傍系企業である京都の都織物株式会社が、紗織篩絹の製造を始めたのもその頃です。しかし、スイス製に比べると品質が劣り、機械製粉用としては使用に耐えない代物でした。当時、都織物と同様、多数の織物業者が紗織篩絹の製造を試みたものの、目的は達成できずに断念した経緯があります。一方、平織篩絹を家業として続けてきた中野篩絹工場においても、伝統の水車用平織篩絹製造の技術をもとに、大正初期から紗織篩絹の研究開発に着手。当時の商工省も国産奨励のため工業奨励金などを交付して援助を行いました。

こうした努力によって、昭和4年頃になって一応の成果は収めました。しかし、当時の国内の技術水準では、スイスの製品に比べるとかなりの見劣りのする製品であったことも事実です。